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【フェールラーベンポラー】北極圏犬ぞり紀行 Vol.3

冬のスカンディナヴィア北極圏を犬ぞりで旅する極地遠征プロジェクト『フェールラーベンポラー』に日本人として初めて参加した
上村幸平さん。世界中から選出された20人のメンバーと、150匹のアラスカン・ハスキーとともに、スウェーデンからノルウェーにかけての300kmを旅する記録を3回にわたってお届けしております。今回は、最終回です。

 


 

上村幸平(うえむらこうへい)
カナダ在住の写真家。1998年大阪生まれ。自然と人間の境界線を探りながら、写真とことばの力を使ってストーリーを伝えています。

 


 

4月6日 遠征四日目:森林限界を超えて

 

 

犬たちも疲れたのでしょうか、深夜に遠吠えで起こされることもなく、昨日よりもぐっすりと休むことができました。テントの外に出ると、空は曇りがちですが風は特にありません。悪くないコンディションです。テントを叩いて霜を落とし、その上に寝袋を干します。

 

四日目はさらに北へ進み、山岳地帯を目指します。
「今日は登りが多いわ。しっかり朝ごはんを食べて、犬たちのサポートをしてあげてね」
アナが朝食をつつきながら僕たちに言います。僕は朝からカレー。パッケージに湯を注ぐと、スパイスの香りが鼻腔を刺激します。
しっかり食事を取ると、エネルギーが湧いて今日も元気に走るぞという気分になります。

 

 

キャンプを出発し、今日もアナの後ろについて走り始めます。ところどころに小さな集落があり、いくつかの家では煙突から煙が上がっているのが見えます。こんなところにも人が住んでいるのかと仰天します。とある集落を通ると、数人の住人が家から出てきてこちらに手を振って歓迎してくれました。人の営みに久々に触れ、心が温かくなります。「タック・タック!(ありがとう)」と手を振りかえします。

 

 

登り坂が続き、どんどん木々がまばらになります。しばらくすると視界が一気に開けます。森林限界を越えたのです。通り過ぎてきた湖と樹林帯をはるか谷の下に見下ろし、なだらかなスカンディナヴィアの山々が僕たちを360度取り囲んでいます。氷河が作り上げた荘厳な地形です。それらをすべてを目に収めようということすら、虚しい営みのように感じられます。

 

 

こんな世界がまだ地球に残されていたなんて。こんな世界を自分が犬ぞりで旅しているなんて。感嘆のため息が出ます。どんどんと登り坂に続く登り坂を越えていくアナの後ろ姿を追いながら、こんな旅を残りの人生でどれだけできるのだろうかと思いを馳せました。
人の命は、この広大な惑星のスケールに比べればなんと儚いものなのでしょう。

 

休憩になり、犬たちは雪に転がり込んでクールダウンします。昼食にはまたクリームパスタ。

 

 

せっかくの休憩時間なので、食事を早めに終わらせて他のチームにも顔を出しに行きます。飛行機で話したぶりにフローに会います。
写真撮っていいかい、と聞くと嬉しそうです。
「お願い!!あまり自分の写真がないの」
ハスキーを愛おしそうに撫でる彼女のポートレートを数枚撮ってあげます。他のメンバーとも少しおしゃべりをして、エネルギーをもらいます。

 

 

最終キャンプまではまだ長いようです。食事休憩を終え再スタートし、ずんずん北に進みます。丘を越え、降り、また登り、下っていきます。その度に息を呑むほど優美な山々が現れます。距離感覚と時間感覚がおかしくなっていくのを感じます。

 

昼下がりに風が強くなります。遮るものも何もない僕たちに、大西洋からの風が吹き付けます。地面の雪が巻き上がって軽いブリザードの様相を呈しています。西側に背中を向けるようにスレッドに立ち、バランスを取ります。

 

 

しばらく風の吹き荒れる斜面を登ると、平坦な台地に出ます。フェールラーベンの旗を横切り、犬ぞりのスピードを落とします。
四日目、最終キャンプのルストゥヤオレです。360度、氷の世界。静かな時の流れを感じさせる緩やかな丘陵が僕たちを見守るかの如く取り囲んでいます。これぞ北極圏の原野とも思える景観です。

 

犬たちを固定した後、ダニエルとハラルドの最後のアウトドア講習に向かいます。ハラルドが手際よく説明します。

 

 

「昨日、雪ブロックでつくったシェルターの要領でテントの風除けを作るんだ。こんなところで暴風雨に吹かれたらひとたまりもないからね」
今日のキャンプ地は遮るものが何もない露出した地帯です。地面から吹き上がる雪がテントの周りに積もることがないように、風が吹いてくる方向に幅2メートル、高さとして腰の位置ほどの壁を作ります。テントからは2メートル離すことで、風がテントに直撃することを避け、風に乗ってきた雪も壁のすぐ後ろに積もるように誘導できるのだといいます。簡単な力学を利用したシェルターです。

 

 

僕は風除け掘り、女子二人がテント、タイラーがまた壊れたストーブの修理。
ソリをここまで引いてきたハスキーたちも大変お疲れの様子。横になって丸くなり、じっとご飯を待っています。

 

 

最終日に備えたブリーフィングのため、6時に全メンバーが集められます。ダニエルが神妙な面持ちで語り出します。

 

「寒冷前線が上がってきている。予報では明日の昼過ぎにこの一帯に吹雪がやってくるようだ」
ここまで最高の天気に恵まれていましたが、最終日にしてついに天気が大きく崩れる予報だというのです。

 

 

「リスクは取りたくない。明日は朝7時きっかりにスタートする。各チームでそれぞれ起床の時間を設定してほしい」
メンバーたちにも緊張が走ります。明日はビッグ・デイ。

 

自分たちのテント場に戻り、ケイトと風除けづくりを続けます。雪ノコギリで正確に切り取ったブロックを重ねると、それはそれは重厚な壁が出来上がります。緻密に重ね合わせていくのはなかなか心地いいです。

 

 

犬たちも眠りにつき、キャンプ全体が少しずつ静まり返っていきます。必死に雪を溶かし、湯を沸かし続け、ようやくすべてのボトルが満タンになったのは結局10時過ぎ。アナを囲んで寝る前にチームで話し合います。

 

 

「明日は一番長い行程になる。最終日だから卒業試験のようなものになるけど、これまで通りやっていれば大丈夫」
いつもに増して、アナの決して動じない口調が心強く感じます。チームのスピードを最大化するために犬ぞりの馬力も合わせた方がいい、と彼女。
「私の犬たちは着いていくのに苦労してた。明日はもっと遅れが出るかも」
ケイトの六匹は心なしか小さめで、いつも最後尾で少し離され気味でした。
「じゃあコウヘイの六匹から一匹交換しよう。今のままだと力強すぎるし、ちょうどいいね」
僕たちのチームは4時起床で早くから準備を始めることにします。最後まで無事に走り切ろう、とハイタッチをし、一日を締めます。

 

最後の夜にも、北極圏の大地は怠りなくその体温を下げていきます。僕たちももはや驚かされず、怠りなく寝支度をします。
熱湯を入れたボトルを靴下に包んで湯たんぽにし、ダウンジャケットを丸めて枕を作ります。電子機器を寝袋に押し込み、朝すぐ使うものをテントの入り口付近にまとめておきます。

 

 

「いいテント仲間と巡り会えてよかったよ」おやすみの代わりにタイラーにそう伝えます。
「俺もだ。最終日、楽しみ切ろうな」
すぐに疲労感が全身を支配し、深い眠りの中に誘われていきました。

 

4月7日 遠征最終日:旅の終わり

 

腕時計のアラームが鳴ります。4時です。陽はまだ顔を出していませんが、作業をするのにヘッドライトは要らないくらいには明るいです。二重に手袋をはめ、まずは犬たちのご飯のためのお湯を沸かします。

 

 

夜明け前のキャンプ地に流れる空気がこれまでと違うのを感じます。昨晩のブリーフィングでダニエルが伝えたニュースが、キャンプ全体に緊張感をもたらしています。準備にあたっても、今まで以上にタスクを分担し、お互いに助け合って効率的に進めます。ケイトは犬の相手が上手いのでハーネス付けなどを任せ、ガビと自分でテントの撤収を進め、タイラーが全員分の水を沸かします。チームの中で語らずともお互いにやるべきことが把握できています。これまでラップランドの大地で実地的に学んできたことが美しく調和を成していることに少なからず興奮を覚えます。

 

 

7時ちょうどに全てのパッキングを終え、スレッドを起こします。最初のチームがスタートし、犬たちのボルテージも上がります。
天気も今のところ最高で、クライマックスにふさわしいコンディションです。

 

今日は引き続き山岳地帯をひたすら北に走り、昼過ぎにはノルウェー国境を越えてゴール地点であるシグナルダーレンに至る行程です。後ろを振り返ると、胸騒ぎを呼び起こす鈍い色の前線が刻々と近づいてきているのが見えます。天候が酷くなるのは午後以降という予報ですが、分厚い雲が東西に一直線に連なってこちらに動いてくるのはなんとも気味が悪いです。

 

 

ケイトとタイラーは遅れがちですが、昨日ほどではありません。ケイトの一匹と交代でやってきた小さなハスキーも健闘しています。それでもなんやかんやで最後尾になります。はるか遠くで動く点が先頭チームだと認識すると少し焦る気持ちもありますが、アナはいたって冷静です。自分のチームのトラブルにも、前方のチームのトラブルにも、声色ひとつ変えずに対処します。

 

 

前線は僕らに追いつき、頭上は雲に覆われます。目をしかめてしまうほど銀箔の大地を照らしていた太陽は分厚い雲の中に姿を消します。まだ視界が悪くならないうちに、数キロ先を走る先頭チームが停止したのが見えます。スウェーデン最北の山小屋、ペルツァ。
最後の休憩場所です。
「たぶんすぐ雪が降り始める。ゴーグルを装着するのを忘れないようにね」アナが食事をかき混ぜながら言います。
「ポラー・パーカを着といた方がいいかな?」
「これから道もテクニカルになるし、体温は上がるはず。レインジャケットをちゃんと着とけば大丈夫よ」

 

 

ペルツァを抜ければ、ノルウェーはすぐそこです。食事を終え、最後の最後の出発前に他のチームに顔を出します。
ここまで一人の脱落者もなくやってこられたのも一つの達成でしょう。

 

犬ぞりのポケットにある限りの軽食を詰め込み、手袋やゴーグルをしっかりと装着します。アナが犬ぞりを蹴り進め、僕も続いて犬たちのパワーを解放します。ペルツァを出てすぐ大雪になり、空も大地も全てが真っ白になります。山と空の境目も、前のチームとの距離も、この先が上りなのか下りなのかも曖昧になります。ホワイトアウトに近い状況の中、アナの姿を見失わないようにスレッドを進めます。複雑な斜面をどんどん登っていきます。傾斜も方向も随時変わっていくので、重心移動だけでなかなか骨が折れます。根気のいる操縦作業です。

 

「あれのはずよ!」アナがこちらを振り返って叫びかけます。彼女の指差す方向には小さな黄色の看板が立っています。
「国境を越えるよ」
目を凝らすと、その小さな看板にはスウェーデン語でさりげなく『ノルウェー国境』と書かれています。あまりのしょぼさに少し笑ってしまいます。国という概念も、国境なんて線も、結局のところ人間のちっぽけな尺度でしかないのです。

 

 

国境を超えた後、一気に標高を下げていきます。フィニッシュラインまではあと一息です。森林限界線を通過し、少しずつ樹木も見え始めます。昨日の朝も樹林帯を走っていたというのに、人生で初めて木を見たかのような気分になります。ツンドラでの時間は感覚を狂わせます。

 

鉄のハードブレーキで地面を音を立てて削りながら、犬たちの加速を抑えつつ下っていきます。急なカーブと斜面が続き、踏ん張る足に強い負担がかかります。さながらジェットコースターのようです。下っていくにつれ、まばらだった植生もれっきとした樹林帯に変わっていきます。北極圏の命を寄せ付けない大地から、ゆっくりと人間の世界に下降します。魔法が解け、夢が覚めていくような感覚に陥ります。そんな哀愁に浸る暇もなく、体重移動とブレーキ操作に全神経を集中させます。

 

「ここからは厳しいカーブが続く。大きく感覚をとって、スピードを最小限に抑えるの」
アナの指示を聞いて左手側を覗くと、深く入り組んだ谷が口を開けています。ぞっとします。犬たちに引きまわされて落っこちたりなどしたらひとたまりもありません。際どいヘアピン・カーブが続く最終局面です。ブレーキが唸りをあげます。息をつく暇もなく、次々にカーブがやってきます。

 

 

手に汗を握るコースター斜面を走り抜け、高い針葉樹林帯に入ります。空気も心なしか湿り気を帯び始めています。大西洋はもうすぐそこにあります。ジェットコースターがメイン部分を走り終わった後、ゆっくりと小さく上下しながらスピードを落とすたかのように、樹林帯のなかのゆるやかな斜面を心地よく走ります。もうすぐフィニッシュラインよ、とアナがスピードを落とします。

 

森を出て視界が開けると、少し先にフェールラーベンの旗が立っているのが見えます。僕たちが近づくにつれて、先に到着していたメンバーやスタッフが歓声を上げて出迎えます。ゴールです。偉業というほど大したものではないですが、それでもこみ上げてくる喜びに拳を宙に突き上げます。

 

 

アナに続いて犬ぞりを停止させます。アナとハグをし、感謝を告げます。ここまで連れてきてくれて、サポートしてくれて、本当にありがとう。
「もちろんよ、いいライドだったわ。ほら、犬たちにさよならを言って」
ハスキーたちともお別れです。風も強くなり、軽いブリザードの様相を呈してきています。我らがリーダードッグ、モカとタピルのもとに行くと、彼らも静かに足元に擦り寄ります。二匹を抱きしめます。こんなに細くてしなやかな体から、野生の力を分け与えてくれました。この旅の主役は犬たちだな、と改めて思わされます。人懐っこく顔を舐め、飛びついてくる愛おしい生き物たちを撫でながら、目元が熱くなるのを感じます。ありがとう、モカ、タピル、リッラマン、イネス、ガルテンとイヴァン。

 

 

タイラーと、ケイトと、ガビと大きく抱擁を交わします。五日間を共にしたチームメイトたちです。メンバー4人とマッシャーのアナで写真を撮ってもらいます。
「トラブル続きで世話をかけたけど、アナがいて心強かったわ」ガビがはにかんでそう言います。
「こちらこそ。私も楽しかった。これまで一緒に走った中で最高のチームだったわ」
毎年そう言ってるんじゃないだろうな、とタイラーが冷やかし、みんなが笑います。

 

五年もの間、待ち続けていた旅が終わりました。
これまで注いできた努力の全てが今終わりを告げるのだと思うと、恐ろしくもありました。しかし、フィニッシュラインを踏んだ瞬間、そんな喪失感は顔を出さず、不思議なほど心は晴れやかになりました。この五日間の旅で手にした新たな技術と装備、そして冒険精神溢れるたくさんの友人は、僕にとっての次なる扉を開いてくれた気がします。

 

旅の終わりは、次の旅の始まりでもあるのです。

 
 

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